今日は、未来への種まきプロジェクト IN TOYAMA「柳田ありす講演会」へ参加してきました。
講演会の内容はもちろんですが、講演後に開催された「ざっくばらんなお話会」にも最後まで参加してきたわけですが、とても暖かい会でした。

今日の大きなテーマは「あるがままでいいんだよ」ということ。

―あるがままでいい。

つまり、みんな違って、みんないい、ということ。
けれど、この”あるがまま”というのは、なかなか難しくて(難しく考えがちで)、一歩間違うと「わがまま」だったり「ルールが守れない」だったり、ということになる。

ママは、我が子に、危険なことをさせないよう、人を気づ付けることのないよう、気を付けながら、時に叱りながら、けれど決して個性を押さえつけることのないように育児に奮闘する。

すごく難しい。

ねぇ、あるがままに生きる。あるがままに子育てするってどういうことなの?
正解を教えてよ。

って誰かに答えを求めたくなる。

今日の講師である、ありすさんが言ってた。
人は脳でジャッジをする。イエスかノーか、正解か不正解か。最近は心と向き合うことを忘れがちだと。
目を閉じて、胸に手を当てて、自分が一番心地いい場所、時間を想像して呼吸をしてみてって。

私にとって一番心地いいのは、朝寝坊した休日。
横を見ると、同じタイミングで目を覚ました娘が、私を見て笑顔で「まま、おはよう」って言ってくれる。
「まだ、お寝坊さんしていようか」って声かけると、「そうだね。」って親子でじゃれあう。
そんな時間がすごく至福。

その時が”あるがまま”。
つまり頭を使わず、心で本能のまま、大好きな人と幸せを共感している。
私にとっての”あるがまま”は、感じるまま、だ。と気づいた。

好き勝手、とは違う。
気遣いのある、相手にも喜んでもらえることをしよう、そのためにしてあげたいことを、本能のまま、深読みなく行動に起こす。それだ。

というのが私の考え。
みんな違って、みんないい。つまり”あるがまま”も、みんな違って、みんないい、だ。
正解はない、不正解もない。

答えがないから、悩む。
子育ての仕方、これでいいの?って。
今は大丈夫でも、小さいころの環境で、この子の人生が左右するかもしれない。今、私がしようとしていること間違ってない?
今、これを書きながらも、やっぱり悩む。

講演後の、ざっくばらんなお話会ではみんな涙を目に浮かべながら、子育てのことをシェアした。

子どもがやんちゃして、ママ友に「○○ちゃん、大丈夫?さみしがってるんじゃない?」とか指摘されると、子育てを否定されるようで辛い。子どものこと気づかないわけないじゃない。気づいてる。
でも、どうしてもできないときがあるの。

そう話すママがいた。…すごく共感できた。
気づいているのに行動できないのは、気づいていないのと同じだ。といつも思っていながらも、できないことばかりだ。私は完璧じゃない、まだまだだ。

わかるわかる、と思いながら話を聞いていたら、別のママがこう言った。

以前、子どもの友達で、「もしかして寂しいのかな。」と感じる子がいました。その時は、その子の家庭環境に問題があったり、孤独な時間があるのかなとか、考えたけど…けどそんな風に頭で考えずに、ただその子を抱きしめてあげたら、その子は満たされたかもしれない。うちの子、人の子でなく、人と人として、その子のためにできることを行動に起こせばよかった、と。

この言葉に、すごく心が救われた。
話を聞きながらも完璧じゃないダメな自分を責めて、責めて、また落ち込みそうになっていたから。
あるがまま、感じるままを行動に起こせば、きっとその姿を子どもは見て、成長する。
あるがまま、ということは何も我が子に対してだけじゃない。
普段から、あるがままでいいんだよ。そう教えてもらえた気がした。

心はいつもホカホカにしておこう。
そのためには、時間に余裕を、毎日にゆとりを。
まずは、胸に手を当て、一番心地いい時間を想像する時間を作ることから始めてみよう。

どの時代も、どの国ででも、親は子を一番に思う。
その想いは深く、広く、重い。
だから、ついつい頭で考えてしまう。正解を求め、ミスをおかさないようにする。

でも大切なのは、あるがままに子どもと向き合うことなのだろう。
どんな言葉を使うか、よりも、どんな心で子どもと向き合うか。
わかりやすくなくてもいい。ただ一生懸命、心を込めて、親子の時間を過ごそう。

 

 

今日の時間を過ごしての私の個人的な感想だから、完全なる私のための備忘録だけれど、もしこれを読んでくれたママがいたならば、今すぐに胸に手を当て、心地よい瞬間を想像してほしい。
そして、心がホカホカしたなら、あるがままに子どもを抱きしめ、「生まれてきてくれてありがとう、大好きだよ」って言ってもらえたら嬉しい。